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2005.08.09
そのすべて真実(解釈編)  (Mr.Children 解釈その1 『Any』)

Mr.Childrenのアルバム 『シフクノオト』の中に、【Any】という歌がある。 (歌詞はこちら
その歌詞の中で、『そのすべて真実』という言葉に私は最も深く共感し、
(だからかもしれないが)アーティストの現在の価値観の根底を見た気がした。

『僕』にとって、確かな『真実』とは...

本当に『君』は『僕』を『愛している』のか?を、人は問題にしがちだが、 本当に『君』が『僕』を『愛している』のかなんて、永遠にわかるはずなんてない。 同じ個体じゃない、他人だからだ。 けれども、『君』が『僕』を『愛している』と言ったことで、『僕』は『たまらなく嬉しくなる』ことだけは、 『僕』にとって確かな『真実』だ。

何かがそこにあることは、確かではないけれども、 それを感じたり、考えたりする主体としての『僕』だけは確かなのだから、 本質は『僕』の意識にあって、それは『すべて真実』なのである。

『真実』は、『僕』の意識の中にある。

『僕』がどう思うか、感じるかが紛れもない『真実』なのに、 それに目を向けれずに、本当は『真実』かどうか到底わかり得ないものを想像して、 それだけに目が行って、人は苦しんだり、もがいたりしている。

例えば、理想と現実(現状)についても。 理想ばかりを追い求めるとき、人は理想に免じて現実(現状)を許しがちだ。 今ある現実、それもまた『真実』なのに認めることが難しい。 理想を目指す自分に酔って満足するだけで、結局自分から何も掴むことができないし、何もかわりはしない。 それでいて、理想と現実のギャップに苦しんだりする。 このときの理想なんて、今ある現実を『真実』と認めたくないための言い訳みたいなものだ。 『真実』と向き合わないための理想に、成り下がっている。

それが、『真実』なのに。

『そのすべて真実』と認めることは、すべての主体が『僕』の意識であると認めること。 ただ確かなのは、『僕』の意識そのものであり、 たとえそれが誰かに操られていたとしても、 『僕』が感じたり、考えたりする事実は、紛れもない『真実』なのである。

すべての主体は、『僕』の意識である。

これは、デカルトの言う、『我思う、故に我あり』と同じことではないかと思ったりする。 また、村上春樹の小説の中で『僕』が言う、『すべてはメタファー』ってこととも、同じじゃないかと思う。

すべての主体が『僕』であるということは、すべてのものが、自分をあらわすメタファー(隠喩)でもあるということ。 例えば、あるものに対して、『僕』は何かを感じたり、考えたりする。 あるもの自体に意味があるんじゃなくて、それに対して何を感じて、考えたか、という意識に意味があって、 それが紛れもない『僕』自身なのだから、あるものは『僕』自身をあらわすメタファーでもある。

また別の言い方をすれば、自分より外の世界と自分とをリンクさせる方法が、メタファーだ。 自分より外の世界に、自己を投影すれば、すべては『僕』をあらわすメタファーとなる。 理論上、外の世界と『僕』とがすべてリンクされることも可能だ。

そして、このページの存在理由へ。

『今僕のいる場所が探したのと違っても 間違いじゃない きっと答えは一つじゃない(【Any】)』 という歌詞は、一見単なる慰めの詩に聞こえなくもない。 けれども、『真実からは嘘を 嘘からは真実を 夢中で探してきたけど』 『そのすべて真実』と認めることが、彼の世界観を変化させ、柔軟に成長させたのではないかと想像する。

このhumuhumu式解釈のページは、世界と私とをリンクさせる試みの一環でもある。 解釈が正しいかどうかが問題なのではなく、私がどう感じるかに意味があるのだ。