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2005.12

● 2005.12.31  さよなら2005年

GOODBYE 2005!

2005年ありがとうケーキ
あっという間に食べ終わってしまったケーキのように
今年もあっという間に終わろうとしています

ちなみに使用したイチゴは 「博多 あまおう」
あまおうの「あ」は「あかい」、「ま」は「まあるい」、「お」は「おおきい」、「う」は「うまい」
全く名前の由来通り
他のいちご品種の追随を許さないコクと甘味は、まさにいちごの王様!

あまおう \780

(by FRUIT MART)と言わしめるほどの美味しさ
ケーキとの相性もばっちり
思いきって買ってよかった

● 2005.12.26  いちおういちょういじょう

<方法>
「一応銀杏異常、いちおういちょういじょう・・・」と10回そらで言ってみましょう。

<結果>
 自分で組み合わせた言葉であるのにも関わらず、いつの間にか「銀杏銀杏銀杏」と口走っている自分が滑稽です。

<考察>
 「一応」「異常」という抽象的な言葉に比べて、「銀杏」は具体的なイメージを伴う言葉です。 「銀杏」という言葉に反応する脳みその領域が、「一応」「異常」に比べて広い、または頻度が高い(=優先順位が高い)ため、 瞬発的な判断の中では「銀杏」という言葉に「一応」「異常」が負けて連動してしまうのかもしれません。

 そのように考えると、脳みそが抽象的な言葉をどのように認識しているか、という興味が湧きます。 例えば「異常」という言葉を考えてみると、 ある主観的な基準点に対する相対的な位置づけを言語化したものであると想像できます。 言い換えれば、ベクトル空間での位置関係を随時ナビゲートしているために起こる認識だと考えることができるでしょう。

 日々の生活の中での様々な刺激(聴覚・視覚・嗅覚・感覚・味覚など)を分解・分析し、 自分がどのように認識しているかを考えることは、取りも直さず「慣れ」からの脱却を意味します。 そしてそのように意識すること自体が、刺激を刺激として受け止め、情報を情報として認識できる状態なのかもしれません。 世界は驚きで満ち溢れ、色鮮やかに、そして時には色を持たず、それが「生きている」ということではないでしょうか。

まさにこどもたちのもつ世界観。
でもみんな最初はこどもだったわけです。 わたしたちは信じられないくらい多くのものを失いながら生きているのかもしれません。

● 2005.12.25  恐るべしクリスマス

メリーさんの羊

クリスマスっていうと、何かお祝いしなくては損な気持ちになるのは
一体何故なのでしょう。
ついつい、つくってしまいました。クリスマス的なものを。
クリスマス、恐るべきパワーです。

● 2005.12.09  矛か盾か

立場や肩書きが 自分の存在を証明し
保障してくれると錯覚する
弱いから そう思い込みたくなる
でも立場や肩書きは 武器じゃない
自分を守る盾でしかない